こころ(心)は、昔は心臓にあるとされていましたが、今では脳にあると考えられています。こころは、脳で司られているものと考えられるものの、それだけでは説明が出来ないことも数多くあります。こころは、生まれてから死ぬまで変わらずにあるものかというと、生まれた時には白紙に近い状態で、生まれてからこころには様々なことが記されて行き、最後の一文字は「死」となると思われます。
ヒトは快・不快の感情にはじまり、快・不快の感情に終わると言われています。新生児の産声は、母胎の羊水の中で安定した環境から、母胎外の不安定な環境に放り出された事を、不快に感じた感情が現れたものだと考えがありますが、胎盤呼吸から肺呼吸への生理的な転換のためのもので、不快感情の現れではありません。
産声は生理的なものですが、生まれたてのヒトの感情は確かに、快よりも不快の感覚に敏感であります。ヒトは不快>快という感情の優位性がある状態で生まれ、成長に従って多くの経験を積んでゆく事によって、快・不快感情が様々な感情へと分化して行きます。
ひとの一生は4⇒3⇒2⇒3⇒4と言われると同じように、感情も最後は、快・不快感情が残ると考えられます。「三つ子の魂百まで」ではありませんが、新生児、乳児期に始まる子どもの頃の体験、特に快感情の体験の多寡が、ひとのこころに心根として大きな作用を及ぼすと考えられます。
ひとの感情や情動、行動は、こころのサインのひとつと考えられ、こころはかからだの状態にも影響を与え、健康状態にも深く影響を及ぼす事があると考えられるようになっています。こころのサインを受け止めて、自分自身が感じたことを、こころへ問い返しフィードバックすることは、こころとより良く付き合って行くには良い方法であり、こころとからだの健康には必要なことと考えられます。
こころを知ること、振り返ることは、今の自分自身を知ることだけでなく、自分の生き方、育ち方を知ることにもなると思われます。自分のこころを知る事は、他者のこころを知るためにも必要であり、対人援助職としての介護職には、自分のこころとからだの健康を守るためだけでなく、利用者のこころを知るための助けになるだけでなく、利用者に添ったかかわりを持つためにも必要なことと考えられます。