口を動かすことで意識が覚醒する
病院や介護施設に行きますと、点滴や鼻チューブの挿入などによって栄養素を摂り入れている要介護者の姿を見かけることがあります。また、そうとはいかないまでも、「元気になったらちゃんとしたごはんが食べられるからね」などと言って、重湯や三分粥など噛む必要性がないものをスプーンで流し込まれていた…といった光景もよく目にします。しかしこれは、介護する側の都合。重篤な病気を患っている場合を除き、要介護者が好きな物を提供すれば、ちゃんと口から食べられます。というよりはむしろ、「元気になったら食べられる」ではなく、「食べるから元気になる」のです。
人間は、朝起きた時に、目が覚めているだけでからだは覚醒していません。からだが起きるのは、歯を磨いたり、物を食べて口を動かしたりしてからです。そうしてようやく覚醒し、意識がしゃんとしてくるのです。
意識は、脳の中の脳幹にある網様体と呼ばれる部分が司っています。食べ物を見た時の刺激、そして噛んだり飲み込んだりといった口からの刺激が網様体へと届き、ようやく意識が覚醒します。これが点滴や鼻チューブだったらどうでしょう?確かに栄養は摂れるかもしれませんが、網様体が刺激されないために、意識がはっきりと覚醒しません。だからこそ、食べ物をしっかり口から摂る、ということが大切なのです。
口からの食事が五感を刺激する
食べ物を目の前にすると、人間の脳は全体的に活性化します。どういうことか、脳の働きと五感に焦点を絞ってご説明しましょう。
食事の時間が近づいてきますと、調理している音や「ごはんですよ~」といった呼びかけが耳から入り、側頭葉にある聴覚中枢を刺激します。と同時に、料理のおいしそうな匂いは鼻から入り、大脳辺縁系にある聴覚中枢を刺激。食べ物を目の前にすれば、後頭葉にある視中枢を刺激。並んだ皿を見渡して、「さて、どれから食べようか」という迷いは前頭葉を刺激し、実際に口に入れ、噛み、飲み込むといった動きをすれば前頭葉の一番上にある運動野や感覚野を刺激します。食べた物に対しては味覚中枢を刺激し、それがおいしかったと思えたなら、「おいしかった、もっと食べたいな」という感情によって再度、前頭葉が刺激されることになります。
口から食べ物を摂るだけで、脳はこれだけ刺激されているのです。これを1日3回繰り返すのですから、脳はかなり活性化されます。高齢者にとって非常に意義のある生活行為だということがわかっていただけるでしょうか。
意識の後には内臓も覚醒
口からの食事は、脳の活性化と同時に内蔵も活性化させます。みなさんも経験があると思いますが、食べ物を目の前にすると自然と口の中にだ液があふれ、口に入れて噛むことで、さらにだ液が分泌されていきます。だ液は胃液の分泌を促し、それによって肝臓やすい臓が活動を始め、小腸と大腸はぜん動運動を開始します。だ液の分泌が内蔵全体を動かし始めるのです。
こうして内臓が消化・吸収の準備を始めたところに食べ物が送り込まれてくるために、食べ物に含まれている栄養素は効率良く吸収され、それによってまた内蔵が活性化するという好循環が生まれます。点滴や鼻チューブでの栄養摂取ではだ液が分泌されないため、栄養の消化・吸収の準備がなされないままに栄養が入ってくることになり、決して好循環は生まれません。このことからも、いかに口から物を食べることが重要かがわかりますよね。
好循環の始まりはだ液の分泌から
それでは、その好循環の仕組みを順序立てて見ていきましょう。まずはだ液の分泌。人間は、食べ物を見たり、その匂いをかいだり、調理している音を聞いたり、また食べ物のことを想像するだけでも、視覚中枢などの五感が刺激され、舌の奥の方にあるだ液腺と呼ばれるところからだ液があふれてきます。そして、実際に口の中に食べ物を入れれば、今度は味覚が刺激されて、さらにだ液が分泌されます。
五感の刺激から胃液が分泌される
視覚、嗅覚、聴覚、味覚、そして想像による刺激は、迷走神経と呼ばれる神経によって胃へと伝わり、胃液の分泌を促します。そして、実際に食べ物が胃へと運ばれ、それが胃の粘膜に触れるとさらに胃液が分泌され、効率の良い消化がなされるのです。
胃液と同時にすい液も分泌
同じく迷走神経はすい臓へもつながっており、五感が受けた刺激によってアルカリや消化酵素に富んだすい液の分泌が促されます。そして、実際に食べ物が送られてくるとさらにすい液が分泌されます。
胆汁は、肝臓から十二指腸へ
迷走神経は肝臓へも伝わっており、五感による刺激は、肝臓でつくられた胆汁が十二指腸へ流出するよう促します。胆汁は、十二指腸ですい液と一緒になることですい液のもつ消化酵素を活発にし、脂肪やタンパク質を分解して腸から吸収しやすくするという、非常に重要な役割をもっています。
脳内では感覚野と運動野が活性化
口から食べ物を摂りますと、同時に、脳内の感覚野と運動野が活性化されます。先に、「噛んだり飲み込んだりといった口からの刺激が脳幹の網様体へと届く」とご説明しましたが、それだけでなく、大脳の頭頂部にある感覚野へと伝わるのです。この感覚野は、噛む、そして飲み込むといった刺激を受ける部分が全体の3割にも及んでおり、口から食べ物を摂ることで刺激されるようになっています。さらに、自分の手を使って食べれば、手や指、肩、腕、肘といった部分にも刺激があるため、感覚野の大部分を刺激することになります。
その一方で、感覚野の手前には運動野と呼ばれる部分が広がっています。ここは、筋肉に指令を出してからだを動かすという司令塔的な役割を担っている部分です。自分で肩や腕、手を動かし、噛み、そして飲み込むということは、運動野全体の7割も使っていることになり、運動野の活性化にもなっているのです。
もちろん、点滴や鼻チューブでは、感覚野も運動野も活性化されることはほとんどありませんので、このことからも、いかに口から食べ物を摂ることが大切かがわかりますよね。脳内が活性化すれば、血流も増え、きっと生き生きとした生活が待っているはずですよ。